「私の生涯」サリバン先生

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こうへき、です。

 

おなじみのヘレンケラーの「『私の生涯』サリバン先生」が出題されたS中の過去問について見ていきたいと思います。なぜこの問題を選んだかと言いますと、サリバン先生がヘレンケラーに言葉を教えている様子が、そんないいものではありませんが、ぼくが子どもたちに教えている流れに重なったからです。子どもたちに国語の神髄を教えることは難しいことです。忍耐が必要です。教材研究をしっかりして、さぁ、気合を入れて指導するぞと思い、作者や筆者が伝えたいことを懸命に説明しながら子どもたちに向き合うと、聞いている子は聞いていますが、ノートに絵を描いている子、手紙を書いている子、隣の子と話をしている子がいたりします。

 もちろん、全部のクラスがそういうわけではありませんが、下位クラスはこんな感じです。サリバン先生は、ヘレンケラーが言葉に気づくまでどこまでも丁寧に彼女の手のひらに文字を書き続けます。ぼくは、どこかで投げやりになることがあります。しっかり説明しているのだから聞かない子がいてもぼくのせいではない、などと思ったこともありました。凡人のぼくに比べて偉人はやはり違います。人間的な器の違いでしょうか。忍耐力と人に対する慈愛が果てしなく広いです。

【あらすじ】

 私の生涯を通じて忘れることのできない重大な日は、サリバン先生が家に来てくれた日です。1887年3月3日、私が満7歳になる3か月前のことでした。母の様子と家中の騒がしさで何か変わったことが起ころうとしていることに気づきました。先生の教育が始まります。盲学校の子どもたちが私にくれた人形を先生は手に持たせ、に、ん、ぎょ、う、と指で手に書きます。そのしぐさが面白かったのですが、意味の分からないまま手にたくさんの言葉がつづられます。先生は何週間も苦労します。あるとき、私は先生のくり返しの試みにかんしゃくを起こし人形を床に叩きつけます。砕けた人形の破片を足先に感じて痛快に思います。私の住んでいた沈黙と暗黒の世界には何ら情操(複雑で高い次元の感情)も慈愛もありませんでした。先生は静かに片づけてくれますが、私は腹立ちの原因が取り除けられたことに満足するだけでした。先生は私に帽子をかぶせ、井戸小屋に連れていきます。冷たい水が私の手に流れます。そのあとすぐに先生は、私の手にW,A,T,E,Rとつづります。私は身動きもせず立ったままで、全身の注意を先生の指の運動に注ぎます。心が大きく動き、ふるえるといった一種の神秘な自覚を感じました。このとき初めて、W,A,T,E,Rはいま自分の片手の上を流れているふしぎな冷たいモノの名前であることを知りました。この生きた一言が私の魂をめざまし、それに光と希望と喜びを与え、私の魂を解放することになったのです。私は、急に熱心になっていそいそと井戸小屋を出ました。こうしてモノにはみな名前があることが分かり、それぞれ新しい思想を生んでくれるのでした。私の手に触れるあらゆるモノが生命をもって躍動しているように感じ始めました。

【問題】

 「この生きた一言が私の魂をめざまし、それに光と希望と喜びを与え、私の魂を解放することになった」とありますが、この説明はどういうことか。自分の言葉で分かり易く説明しなさい。

【解説】

 S中では、この問題はありませんでした。ぼくが勝手に作問しました。ヘレンケラーのこの言葉に奥深い世界を感じたものですから、ぼくは問題にしたくなりました。このように、子どもたちにもよく、記述問題を作問し解かせることがあります。

 さて、考えてみましょう。上に挙げたあらすじの中で、彼女は「私の住んでいた沈黙と暗黒の世界には何ら情操(複雑で高い次元の感情)も慈愛もありませんでした。」とあります。つまり、目が見えず聾唖である彼女は、言葉を知るまで自分が肌で触れるものは何らかの物体であることは分かりますが、それが何かということが分かりません。ところが、言葉によって冷たい物体が水であることを知ると、世の中にあるものにはすべて名前がおることに気づきます。さらに水が美味しければ、“おいしい”という言葉で表現することができます。混沌としたモノや感情をすべて言葉で表現することが出来ることが分かった途端、あまり良い表現ではありませんが、動物から人間に進化した瞬間だったのだろうと思います。言葉で表現することで自分の感情を高次元の感情を持つことができたのでしょう。そのために光と希望と喜びが与えられ、ヘレンの魂を暗闇から解放することが出来たのだろうと思います。

【解答例】

 目が見えず、耳が聞こえず、話すことが出来なかったヘレンケラーは、言葉を知らず暗闇の中で動物のように生きてきた。ところがサリバン先生からどんなモノにも言葉があることを教わり、高次元レベルで自分の感情を表すことが出来るようになって光と希望と喜びが与えられ、ヘレンの魂を暗闇から解放することが出来たということ。

 

#沈黙と暗黒の世界  #言葉で伝えるモノ  #高次元の感情

新たなステージを迎えるにあたって

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勉強に悩む子ども

こうへき、です。

 

 明日から8月です。中学受験生、特に受験学年の6年生において、新たな展開に入っていきます。どうしてそういえるかということを考えていきます。ということで、今回は6年生を中心に考えてみたいと思います。

 

 中学入試は、主に5年生、6年生の2年間で完結します。3年生、4年生は、プレという位置づけでしょうか。一週間ごとに単元が進み、長期休暇の講習で復習と予習を繰り返します。6年生は、最後の長期的な休暇ですから、総復習ということになります。これまで勉強してきたことを総ざらいして、9月から志望校別の授業に特化していくことになります。塾によってスタイルが異なりますが、全般的な流れとしてはこんな感じになります。

 6年生にとって最後の長期講習ですから、とても大事な時期になります。つまり、これまでの総ざらいですから、苦手な科目、苦手な単元を克服するチャンスです。そのためには、苦手な科目なり、単元なり、どこが弱点なのか見極めておく必要がでてきます。ただし、全てに手を付ける必要があるかというと、そういうわけではありません。   

 その理由について説明します。国語で例えます。口語文法、詩、短歌、俳句が苦手だとして下さい。志望校が決定していないとしても、ある程度は決まっているはずです。その学校の過去問を見て、これまで文法の問題や詩、短歌、俳句が出ているか確認します。出題されていなければ、どうでしょうか。勉強をする必要がないとは言いませんが、改めて気合を入れて勉強をする必要はないといえるでしょう。他の科目の勉強も同じだといえるでしょう。

 あと、大事なことは全科目にいえることですが、基本事項を徹底的に身に付けなければならないということです。特に理系分野が大事です。その理由としては、どの科目も知識を積み上げていくことには変わりはありませんが、特に算数や理科の物理、化学分野は積み上げた基礎知識が危ういと問題が解けません。以前の話になりますが、体験授業を受ける生徒を見ていると、国語の科目は何とかなります。日本人である限り、物語や論説文は普通に読むことが出来ますし、問題も理解出来ます。

 ところが、算数の先生方は大変です。体験授業を受ける子どもたちが転塾してくる場合は別ですが、初歩から始める子どもたちは、これまでの蓄積がありません。普通の授業を受ける子どもたちに説明しなければなりません。でも、体験を受ける子どもは全く分からないということになります。この例からも分かるように、理系分野の知識の積み重ねは絶対必要になるわけです。

 8月から理系を中心とした基礎知識の確認を徹底的に行ってほしいものです。よく、漢字のテキストや語句のテキストは、どれがいいでしょうかという質問を受けます。多少の体裁は、塾のテキストによっても異なりますが、基本的にはそれほど変わらないです。それより一冊のテキストを繰り返し解くようにして下さい。あるテキストを70%理解出来たとします。でも、30%は理解出来ていないということになります。他のテキストに手を付け始めたとしても30%理解出来ていない場合は、他のテキストをやっても同じことが言えます。いろいろなテキストに手を付け、勉強が進んでいると思いがちですが、現実は身に付いていません。理系の勉強も同じです。難しい応用問題を解きたがる生徒がいますが、基礎的な知識が身に付いていなければ必ずつまずきます。とにかく基礎的な知識を付けるための期間と位置付けて勉強することをお勧めします。

 入試が近づいてくると、志望校の過去問題を解き、志望校に出題されてきた苦手分野をひたすら克服しなければなりません。そそのときになって基礎学力をつけなければならないといっても時間が足りません。だから、今その時間に充ててほしいと思います。

 

#基礎学力養成期間  #理系を中心  #苦手分野の確認

夏期講習で、息切れはしていませんか?

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お母さんと息子

 こうへき、です。

 

 今回は、塾に通っている子どもたちの夏期講習について説明します。なぜ、夏期講習について説明するのかというと、教え子のお母さんからこんな相談を受けたからです。塾の四科目の復習、宿題、漢字、計算練習で朝から晩まで毎日勉強ばかりで、うちの子が倒れてしまうのではないかとハラハラしていますが、どうしたらいいのでしょうか。そんな内容です。少し補足しておきますが、お母さんが自ら言っていたことですが、自分の性格からきている心配性で子どもはそれほど追い詰められていませんが、自分が参ってしまうということでした。

 

 本人の息切れ、そばで子どもたちを見守る保護者の方の不安など悩みの種は尽きないものです。ぼくは、このように言います。大手の塾に言えることですが、ご家庭のそれぞれの心配を個々に考えている暇はありません。言い方が悪いですが、そんなことを考えていると、塾のカリキュラムは進みません。

 

 ですから、子どもたちの様子を見ながら塾に通わせるしかありません。

 

 では、どのようにすれば良いのでしょうか。ぼくは、このお母さんに以下のように説明しました。まず、お母さんの心配の種を摘み取るしかありません。子どもが倒れるのではないか、塾のカリキュラムや勉強につぶされておかしくなってしまうのではないか、という心配です。子どもの様子を見ながら、出来るところまでにしておきましょうと言います。言い方を換えますと、やるべきことに優先順位をつけて出来るところまで進めて下さい、とお話させて頂きます。それで大丈夫でしょうか、とお母さんは言います。今度は別の心配です。それで受験に間に合うのか、塾から何か言われるのでないか、など悩みは尽きません。

 

 子どもたちはロボットではありません。休息も必要ですし、息抜きも必要です。塾が主体ではありません。子どもが主役です。子どもたちには、みんな個性があります。兄弟姉妹でもそれぞれです。その個性と向き合って勉強を進める必要があります。でも、小学生にとっては、周囲の大人たちの言うことは絶対です。正しいかどうかという自己判断力がまだ完成していませんので、言われることに従わざるをえません。そのうちに自分が出来る範囲を超えてしまって、精神的に追い詰められていくというパターンになります。子どもたちには、さまざまな才能があります。その芽を摘み取ることは誰も出来ないはずです。

 冒頭で相談されたお母さんにどのように説明したのか。話を続けます。優先順位とは何か。基礎学力を身に付ける作業を怠ることは出来ません。漢字、計算といった日々の作業です。復習も大事なことです。習ったことをもう一度見直すという繰り返しの行動パターンを身に付けさせることが大事だからです。その次に宿題があります。このように優先順位を各家庭で決めて、時間が来たところで終わりにします。息抜きの時間を作ることも大事です。よく、受験が終わるまでゲームを封印するご家庭があります。好きな習い事をやめさせることもあります。そういうことに耐えて勉強する子がいることも事実です。でも、大半の子どもは堪えられません。息抜きの手段をすべて絶って、ただ勉強だけというのはムリです。大人でも苦痛が伴いストレスが溜まっていくのではないでしょうか。

 繰り返します。それで受験が間に合いますか、志望校に合格出来ますか、と反論されることがあります。子どもにムリ強いして、さすがに家庭教師先のご家庭に言い返すことはしませんが、その先に何があるというのでしょうか。

 

 話を戻します。体育会系の塾があります。子どもたちが言うことを聞くように、半ば脅すように宿題をさせます。そんな場合は、保護者の方が、今、出来ることを優先順位でやっているということを塾に伝えればいいと思います。子どもたちは、恐怖に洗脳されていますから嫌がるでしょうが、毅然とした態度で塾に向き合い、やるべきことから順にこなし、出来たところまでで終了にするべきでしょう。それが出来るのは、保護者の方しかいません。

 

#優先順位がある  #基礎学習が大事  #息抜きも大事  #子どもファースト

ユキコボシ

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ハクサンフウロ

こうへき、です。

 

今回は、今江祥智さんの戦争童話の「ユキコボシ」を出題したT中の問題を考えてみたいと思います。戦争に翻弄された人々の切ない物語が上手に描かれている作品です。赤本の中から見つけました。終戦記念日も近いことですし、「ユキコボシ」を見ながら考えたいと思います。

【あらすじ】

小学生のあき子は、図工の時間にタイルモザイクの作品を作ろうとします。授業中に出来上がらなかったので、家で仕上げようと考えます。弟のイタズラで赤のタイルモザイクを失ってしまい、赤い花を作るつもりが、白い細かな色になってしまいました。学校に持っていくと、藤山先生はこの花を知っているのと聞きました。あき子が首を振ると、先生はユキコボシの話をしてくれました。

 この花は、森のずっと奥でひっそりと咲く花でめったに見られません。先生がまだ幼かったころ、ゆきっぺと呼ばれていました。あるとき、兄に連れられて森の奥に行きます。森の草地に座らされ、兄はひもをつけて森の奥に入っていきます。幼い先生は心配になり、たまにひもを引っ張ると合図があり安心します。ところが、とつぜん、ひもがぎゅっと引っ張られます。ゆきっぺは、何ごとかと急いでひもをたぐり兄のもとに走って行きます。兄は笑って立っていました。足元を見るように言われると、真っ白い小さな花が咲いていました。目にしみるような美しさです。家に持って帰ると言いますと、兄はムリだと言います。自分も何度も同じことをしたけれど、かなわなかった話をしてくれました。森の静けさ、しっとりとした空気、みどり色の川底のようなしめりけが、ユキコボシの花には必要だということでした。それ以来、この花が忘れられなくなります。戦争が激しくなり、兄さんをふくめた男たちは、キノコがつみとられるように亡くなっていきます。ゆきっぺは、一人で森の奥に入っていける年齢になります。森の奥深くに入っていきます。少しずつ進み、まよい、もどり、やっと大きなシダのかげでひっそりとさいているユキコボシを見つけます。目の前でやさしい風にふかれ、こきざみにゆれています。ゆきっぺは、心の中であんちゃんと叫びます。

 花の白さが、あのとき笑って振り返ったあんちゃんの歯の白さと重なり、涙をこぼさずに泣きます。花を持ち帰ります。持ち帰っても花が咲いていたら、兄が戻ってくるのではないかと思います。でも、ダメでした。花は、三日ともたずに枯れ、葉もつやをなくし、ふかふかの手ざわりはざらざらになり、何かに焼かれたみたいに―死にます。

【問題】

 T中の問題とは異なります。久しぶりにこの話を読んで、勝手に問題を作りたくなりました。ゆきっぺが家にユキコボシを持ち帰りましたが、その花は三日ともたずに枯れます。でも、なぜ「何かに焼かれたみたいに―死んだ」という表現になるのか説明しなさい。

【解説】

ユキコボシが、どのようなことにつながるのか考えると分かります。森の奥に連れていってくれ、穢れない花の美しさを見せてくれた兄との思い出であり、自然の美しさでもあります。その兄は、戦争で殺されたことはすぐ分かります。けれど、それだけではありません。森の奥深くでしか咲かないこの花は、自然が見せる奇跡であり、同時に人々が平和に暮らしてきた象徴でもあります。兄が焼かれ、自然が壊され、平和を踏みにじる人の醜さまでが描かれているのでしょう。

 【解答例】

 ユキコボシは、心優しい兄であり、美しい自然やのどかな平和を象徴している。その花が焼かれ死ぬということは、兄をはじめ多くの若者が戦争で殺され、人々の醜い心で自然や平和を壊されたことを象徴しているため。

 

#ユキコボシ  #自然と平和  #争いと人々の心

二番目の悪者

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ライオン

こうへき、です。

 

 今回は、林木林(はやしきりん)さんの「二番目の悪者」が出題されたS中の過去問に着目したいと思います。物語の展開が面白いだけでなく、日本の社会を皮肉っているようで改めて考えさせられる内容だったからです。自戒を含めて、改めて今の社会を見直すべきなのかもしれません。

【あらすじ】

 昔のことです。みごとな金色のたてがみを持つライオンがいました。ライオンは大変お金持ちだったので、知り合いを集めては盛大なパーティを開き、たてがみを見せびらかしました。この国の王様は大変年老いていました。ある日、自分の死期を悟った王様は、次の王様を国民で決めるようにとおふれを出しました。金色のたてがみをもつライオンは、自分こそが次の王になるのにふさわしいと思っていました。ところが、街の広場では、別のライオンが候補に上がっていました。それは、街はずれに住んでいる心のやさしいライオンでした。金のライオンは、その噂が気になって仕方がなく、街はずれまで様子をうかがいに行きます。銀のたてがみをしたライオンでした。他の動物のために片時も休みません。こんなライオンがいたなんて、と歯ぎしりしてくやしがります。金のライオンは何とかしなければならないと思い、銀のライオンの悪いウワサを立て始めます。初めは信じなかった動物たちも、次第にウワサをし始めます。悪いウワサは膨れ上がり、次第にひとり歩きを始めます。根も葉もないウワサに銀のライオンは、ただ苦笑いをするだけで何も言いません。誤解はいつかとけると思っていたからです。

 黄金の稲穂の輝きが地平線をおおうころ、自ら手を挙げた金のライオンが新しい王様になります。新しい王様は、好き勝手に国を治めます。世界中から黄金を買い集め、たくさんの借金を抱え込みます。庶民の貧しさなどは目もくれず、ぜいたくのし放題です。そのうち、よその国が金の塔を建てたと聞いては腹を立て、戦いを始めます。田畑が焼かれると、少ない農作物を独り占めします。民衆は、仕事も土地も生きる希望もなくします。焼け焦げて煙る大地を前に、みな呆然と立ち尽くします。なんてひどい王様だろう。銀のライオンが王様だったら、こんなことにはならなかったと言います。みんなは口々に、銀のライオンの悪いウワサが流れてきたので彼に気を付けてと言っただけだと言います。はるか頭上を過ぎていく雲はつぶやきます。ほんとうに、金のライオンだけが悪かったのか。誰かにとって都合のよいウソが世界を変えてしまうことがある。だからこそ、なんどでも確かめよう。あの高くそびえる山は、本当に山なのか。この川は、間違った方向へ流れていないか。みなが歩いて行く道の果てには、何が待っているのか。

【問題】

「ほんとうに、金のライオンだけが悪かったのか」とありますが、作者はどうすべきだと考えていますか。それを「二番目の悪者」というタイトルの意味も考えて説明しなさい。

【解説】

寓話風な話です。でも、耳の痛いことだらけです。ぼくも含めてですが、世に出回る情報についてどれだけ自分の知識や判断に基づいて理解しているのでしょうか。完全に分からなかったとしても、可能な限り自分で調べてからその情報についての良し悪しの判断するべきであることはいうまでもありません。でも、一つのウワサについて、なになにらしいよという言葉を使わない人はどれほどいるでしょうか。今の世の中についても言えます。政治家のせいにしたり、大企業のせいにしたりして他人事のように傍観しながらも、批判することだけは忘れません。そういう世の中に対する皮肉としてこの物語が創作されたのだろうということは間違いなさそうです。

【解答例】

悪いウワサを広めて自分が王になった金のライオンが一番悪い。だが、自分で確かめることもなく、銀のライオンの悪いウワサをただ広めた動物たちにも問題があり、その結果ひどい世の中になってしまったことを考えると動物たちも二番目に悪い。知り得た情報を自らが判断し、世の中を正しい方向に導かなければならない。

 

 #人のウワサ  #自分で判断  #寓話

 


 

なんで国語の勉強なんかするんですか?

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本を読む子

 こうへき、です。

 

 これまで昼間は学校で、夕方は塾や家庭教師で国語を教えてきました。その時々ですが、上に挙げた質問をされることがありました。子どもたちの質問に考え、悩みながら、でも、真面目に答えてきました。子どもたちも、自分たちが、なぜ、このような勉強をしなければならないのか、模索しているのだろうと思います。

 今回は、ぼくなりに考えてきたことを説明してみようと思います。人は、生きることができて100年程度です。これまで、さまざまな大天才が現れては亡くなっていきました。大作家が書いた小説、天才的な頭脳を持った科学者が書いた評論文やエッセイ、偉大な詩人や歌人など、本当に素晴らしい作品を残してくれました。図書館は、貴重なタイムカプセルなのではないか、あるいは、タイムマシンではないのかと思います。つまり、素晴らしい頭脳や、感性を持った人々が残してくれた財産に触れることが出来るからです。最近は映像で残すことも出来るようになりましたが、時代をさかのぼれば文章や図画で残すしかありませんでした。国語の教科書に載っている作品は、どれも素晴らしいものです。それを読み味わうことで自分たちの感性を磨くことが出来れば、魂を鍛えることが出来ます。子どもたちに魂などとは言いませんが、少なくとも自分を磨くことが出来るのではないと答えています。

 そういえば、以前子どもたちにこんなことを言われたことがありました。ハリーポッターが出始めたころのことです。少し目を通しましたが、カタカナが多いのと分厚い本で途中でくじけました。子どもたちの感性に合っているのでしょうか。子どもたちに、先生はハリーポッターを読んだことがある?と聞かれました。途中の、それも前半部でくじけたことを正直に言いますと、先生、しっかり読まないと人生の損失だよと言われました。なんとも頼もしいことを言ってくれるなと思いましたが、そのときは、うるさい、司馬遼太郎を知っているのか?山本周五郎は?井上靖は?などど大人気もなく言い返したりしました。そんなとき、子どもたちは子ども相手に何むきになってるんだよ。と会話した覚えがあります。

 ぼくは、子どもたちにもっと本を読もうとは言いません。それで子どもたちが、本好きになるとは思えないからです。本好きな子どもは、もう読んでいます。運動好きな子どもたちは、黙っていても身体を動かしています。ぼくの作戦は、入試問題で取り上げた作品の続きを語ってあげます。知らなければ、そっと調べて、さも知っているように語り聞かせます。読みたい気持ちにさせてしまうという方法を取ります。

 学校の授業においては、もっと自由に作品の世界観について触れます。とはいっても、ぼくの能力には限界がありますので、どこまで子どもたちの心に届けることが出来るかわかりませんが、とにかく自由に語って聞かせます。今回は、これくらいにしておきます。

#タイムカプセル  #タイムマシン  #人生の損失

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トンボをつかむ男の子

子どもの心に宿るもの

 

こうへき、です。

 

今回は「子どもの心に宿るもの」というテーマで考えてみたいと思います。中学受験に長い間携わってきて、不思議に思うことがたくさんありました。でも、その前に子どものことを考えると、頭に浮かぶことが二つあります。一つは、マザーテレサの写真です。偉人の彼女が、小さな子に向かって拝んでいる写真です。その写真の文脈もなにも分かりませんが、ぼくには、彼女がそこに神を見出しているように見えたのです。もう一つは、作家の井上靖さんが書いたエッセイです。ぼくが好きだからそう思うのか分かりませんが、彼の言葉にも神が感じられました。井上さんは、こんなことを言います。幼いころのこと。冬にバケツに氷が張っていて、ワクワクしながら割ったことを思い出します。今でも、バケツに氷が張っていて、その氷を割ることができます。でも、幼いころワクワクして氷を割った感覚をもう味わうことができなくて淋しい、と。多分、こんな内容だったと思います。そのとき、そう言われれば、自分もそんなことがあったなと思いました。ぼくは、好奇心旺盛な子どもでした。といっても、その後、何ら立派になっていないのが凡人の証ですが、とにかく、毎日、ワクワクして過ごしたことは間違いありません。

でも、です。「子どもの心」を持っているのは、子どもだけとは限りません。これは抽象的な意味で言っているのではありません。中学生だって、高校生だって、大人だって見られる場合があります。芸術家や作家などの作品の端々に見られることもあります。音楽にもあることでしょう。マザーテレサの笑顔にも感じられます。その反対もあります。子どもなのだけれども、どこかに子どもの心を置いてきてしまった子どもを見ることがあります。そんなときは、寂しい思いをします。具体的な例を挙げます。漢字テストをやっているときです。こちらの目を気にしながら、コッソリと答えを写しているのです。テストの答えを改ざんして、採点が間違っていたと持ってくる子どもたちの顔にも大人のズルさを見ることができます。

受験生が、真剣に問題を解いている時の顔つきに神々しさを感じるときがあります。これまで、授業中騒いでいた男の子が、急に受験モードに入って顔つきが変わっていく子がいます。そのようなときに見せる面構えが素晴らしいですね。だから、大人であっても、純粋にという表現が相応しいかどうかは置いといて、誰かのために真剣に取り組む姿に「子どもの心」に通じるものがあるかもしれません。煩悩多きぼくですが、子どもと会話していて、その言葉を聞き、その目を見ていると、自然に何かに引き込まれていく感じがします。教え初めのころは、まだ二十代でした。そんなことは、全く感じられませんでした。ボンクラな自分ですが、教えてから20年くらい経って「子どもの心」が感じられるようになってきたのです。優秀な先生は、早くからそのことに気づいているはずです。子どもと向き合っていると、時間を忘れます。子どもと向き合っている時間と、それ以外の時間と、物理的には同じなのでしょうが、感覚は異なります。

結論めいた言葉が見つかりません。ただ、見事なまでに洗練された中学入試問題は、物語文にしろ、論説文にしろ、「子どもの心」を見越して問題が作られているのだろうと感じます。前回にも書きましたが、この「子どもの心」を大切にしながら、子どもを指導していくことの難しさは言葉では言い表せません。何だか中途半端な文章になってしまいましたが、このくらいにしておきます。

 

#子どもの心  #マザーテレサと子ども  #井上靖と作品