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トンボをつかむ男の子

子どもの心に宿るもの

 

こうへき、です。

 

今回は「子どもの心に宿るもの」というテーマで考えてみたいと思います。中学受験に長い間携わってきて、不思議に思うことがたくさんありました。でも、その前に子どものことを考えると、頭に浮かぶことが二つあります。一つは、マザーテレサの写真です。偉人の彼女が、小さな子に向かって拝んでいる写真です。その写真の文脈もなにも分かりませんが、ぼくには、彼女がそこに神を見出しているように見えたのです。もう一つは、作家の井上靖さんが書いたエッセイです。ぼくが好きだからそう思うのか分かりませんが、彼の言葉にも神が感じられました。井上さんは、こんなことを言います。幼いころのこと。冬にバケツに氷が張っていて、ワクワクしながら割ったことを思い出します。今でも、バケツに氷が張っていて、その氷を割ることができます。でも、幼いころワクワクして氷を割った感覚をもう味わうことができなくて淋しい、と。多分、こんな内容だったと思います。そのとき、そう言われれば、自分もそんなことがあったなと思いました。ぼくは、好奇心旺盛な子どもでした。といっても、その後、何ら立派になっていないのが凡人の証ですが、とにかく、毎日、ワクワクして過ごしたことは間違いありません。

でも、です。「子どもの心」を持っているのは、子どもだけとは限りません。これは抽象的な意味で言っているのではありません。中学生だって、高校生だって、大人だって見られる場合があります。芸術家や作家などの作品の端々に見られることもあります。音楽にもあることでしょう。マザーテレサの笑顔にも感じられます。その反対もあります。子どもなのだけれども、どこかに子どもの心を置いてきてしまった子どもを見ることがあります。そんなときは、寂しい思いをします。具体的な例を挙げます。漢字テストをやっているときです。こちらの目を気にしながら、コッソリと答えを写しているのです。テストの答えを改ざんして、採点が間違っていたと持ってくる子どもたちの顔にも大人のズルさを見ることができます。

受験生が、真剣に問題を解いている時の顔つきに神々しさを感じるときがあります。これまで、授業中騒いでいた男の子が、急に受験モードに入って顔つきが変わっていく子がいます。そのようなときに見せる面構えが素晴らしいですね。だから、大人であっても、純粋にという表現が相応しいかどうかは置いといて、誰かのために真剣に取り組む姿に「子どもの心」に通じるものがあるかもしれません。煩悩多きぼくですが、子どもと会話していて、その言葉を聞き、その目を見ていると、自然に何かに引き込まれていく感じがします。教え初めのころは、まだ二十代でした。そんなことは、全く感じられませんでした。ボンクラな自分ですが、教えてから20年くらい経って「子どもの心」が感じられるようになってきたのです。優秀な先生は、早くからそのことに気づいているはずです。子どもと向き合っていると、時間を忘れます。子どもと向き合っている時間と、それ以外の時間と、物理的には同じなのでしょうが、感覚は異なります。

結論めいた言葉が見つかりません。ただ、見事なまでに洗練された中学入試問題は、物語文にしろ、論説文にしろ、「子どもの心」を見越して問題が作られているのだろうと感じます。前回にも書きましたが、この「子どもの心」を大切にしながら、子どもを指導していくことの難しさは言葉では言い表せません。何だか中途半端な文章になってしまいましたが、このくらいにしておきます。

 

#子どもの心  #マザーテレサと子ども  #井上靖と作品